HISTORY
杜若園芸の歴史

岩見俊孝より皆様へ

歴史とは何でしょうか。

筆者は学生時代に植物のことばかり考えてきたのであまり学校で習うような歴史には精通していないのですが、時間の流れのようなものは、植物を通してよく感じてきました。

植物の時間の流れは、ゆっくりしているように思われることがありますが、水生植物に関してはとても早く時間が流れます。しかし、なんにしても時間の感じ方は人それぞれ、相対的なので、筆者からは、早く感じられるだけかもしれません。

この城陽に地にて、水と太陽を浴びながら農作業をしていると、時々刻々と変化する植物やメダカがとても牧歌的なものに感じられ、それが、自身の生活の価値観と結びついて、植物の成長の方が早く感じられるだけかもしれません。

それにしてもやっぱり、水生植物はとても早く成長します!

それは、弊社杜若園芸の歴史と同じくゆっくりと感じられるものでもあり、変化の激しいものでもあるのではないかと思います。

人と人、人と植物との関わりの中で、人が何を感じ、どのような価値観で、どんなことを為してきたのか、その背景には綿々とつながっている「人の想い」があり、それが、歴史なのではないかと思っております。

ここでは、杜若園芸の歴史を創業者の岩見良三の視点からお話していきたく思います。出来うることならば、創業から変わらない「想い」と激しい時代の変化を生き抜いてきた「たましい」を皆さまに感じていただけますとうれしく思います。

京都府城陽市は水の豊かな場所

杜若園芸の歴史は、筆者の祖父、岩見良三からはじまりますが、城陽の歴史であるともいえます。城陽の歴史は本当に古いのです。寺田駅から南に少しいったところにある文化パルク城陽には歴史民俗資料館があります。そこには発見された銅鏡や古墳時代の人々の暮らしぶりがよく紹介されています。

また、長池駅からちょっと登って行った丘には今は公園になって整備されているけれども、古墳の跡地もあって、竪穴式住居のレプリカが置いてあったりします。つまり、城陽の人の歴史が始まったのは今から4000年前の縄文時代後期です。

城陽の歴史が始まって4000年後、良三の両親はもともと城陽の長池という場所で花の栽培をしていました。両親と兄二人と弟が一人の農家の三男坊として生まれた良三は小さなころから花の手伝いをしていたそうです。

この地は、古くから水の豊富な地域で、浅く掘ってもいい水が出ます。また、京都から奈良まで、丁度五里と五里に立地していることから「ごりごりの里」と呼ばれ、街道近くには宿場も存在していたようです。

宿場の賑わいは、戦国時代には軍隊の行進の為、略奪などの恐れもありました。そのため、自治組織が発達し、農民が一丸となって村や田畑を守ってきたそうです。

城陽市は、現在は、長池村、寺田村、富野庄村、久津川村などが合併し出来ていますが、古墳時代から綿々と農業を中心に発展していきました。

木津川が近くに流れ(古くは川が主要な交通路だったようです)、豊富な地下水に宿場町もあり、京都奈良という巨大な市場が近くに存在していることから、農地としては、商品作物が栽培されるのは道理だったと言えます。

城陽には特産品に「寺田いも」「金銀糸」「ハナショウブ」「カキツバタ」「ウメ」「イチジク」が現在でもあります。

それらは、時代の変化と共に、作付けする品目を変化させていった城陽の農家の知恵と都市の需要に応えていくべく様々な改良を加えていった農家のアイディアの歴史があったものと思います。

新聞記事

祖父の岩見良三はそのうちのハナショウブやカキツバタ、オランダカイウやスイレン、ハスなど、水を必要とする水生植物を城陽の地でたくさん栽培するようになったのです。

カキツバタを収穫する岩見良三

岩見良三の子供時代
~駅のホームで思ったこと~

その日、良三はいつもと同じように自転車に乗って長池駅まで向かっていました。

肌寒さの残る4月のある晴れた朝のことです。5時過ぎの電車に乗る必要があるので30分前までには、出発しました。

まだ、暗い中、徐々に山際が明るくなってきています。自転車の後ろのカゴには、ハナショウブがたんまりと乗っています。

このハナショウブは母親が前日の夕暮れまでに収穫したものを晩までかかって母親がまとめたものです。母親はただひたすらにもくもくとハナショウブの束を作っていきます。あまりにも集中するものだから良三少年は母親とおしゃべりらしいおしゃべりをしたことがなかったそうです。

ひとつ、母親からは、「人さまの為になることをするんだよ、何事も心を込めてやらなあかんよ」と聞いて育ったのでした。

ただ、良三少年は常々思います。

「なんで、うちばかり、こんなに大変なんや。隣の席のあいつは弁当がちゃう。麦飯に梅干し一つなんかやない。玉子なんぞのっけて、しかもホカホカ弁当を親が届けにわざわざきよる。

うちが貧しいんはしゃーない、でも、頑張っても頑張っても貧しいんはなんでや。そいやあいつんちは金糸つくっとったな。しかも、あいつんちの親、夜にゃ、先斗町で遊んでるいうてたな。おかしいやろ。

ああ、商売がしたいな。農家はいやや。なんや、今日はやけに重いな。」

そんなことを思いながら駅につきました。

いつもなら、ハナショウブの束をホームの上までのせられるはすです。でも、どうしても今日は重い。自転車から束が落ちた。持ち上げられない。

少年は、まだ、小学4年生なのです。ゆうに30キロは超えるものを自分の背丈と同じくらいのホームまで上げられるわけがないのです。

少年は何度も何度も持ち上げ、引きずり、一心不乱に焦っていました。踏切がなったのだ。まもなく汽車がきます。

この電車に乗れなかったら家族の食事に関わる。一日の売上を上げられないし、学校にも遅刻してしまう。遅刻したら、先生からしこたま殴られ、教室の外に重いバケツを持って立っていなければならない。

なんとかしなくてはならなかったのです。小学校の先生はとても怖く、厳しい人です。今では考えられないくらいげんこつも飛ぶし、理不尽だと思ったことは一回ではないです。

良三少年は数日前には、弁当を忘れたとの理由で、廊下にバケツで立たされたことを思い出しました。でも、本当は弁当を持ってくるのを忘れたわけではないのです。朝がおかゆだったから、それも薄い薄いおかゆだったから弁当につめられず「もうええわ」と思って持ってこられなかっただけなのです。

けれど、そんな言い訳が通じるほど先生は甘い人ではないのです。そんなことを言ったらきっともっとげんこつが飛んでくるに相違ないので、黙って廊下に立っていたのです。

焦っても花はホームに上げられません。泣きそうになってきました。

その時、駅の車掌さんが見るに見かねたのか助けてくれました。毎日見る踏切の棒を上げ下げする係の人です。少してこずりながらもなんとかホームに上がれました。「こんな重いもん、毎日ようがんばっとるな」と、声をかけてくれました。

良三少年は、何とかそうやって電車に乗ることが出来て、京都と東寺の間の駅、八条駅(今はもうない)で降りて花の市がある丸太町まで、おいている自転車に乗って納品することが出来たのです。

思いました。

「頑張っても頑張っても、貧しいけれど、つらいときもあるけれど、見ていてくれる人はおるんやなあ。農業は大変やけれど、かあちゃんいうてたな、心をこめな、か。」

少年は、自分の我慢のなさと不平不満の心を反省したそうです。自分の境遇を呪うよりも今の仕事を一生懸命やろう、勉強も頑張って、人さまの為になることをしよう、そう思ったそうです。

確かに、良三少年の境遇は決して明るいものではなかったです。

前年、まだ、良三少年が小学生3年生の時に親父さんがなくなってしまっているのです。7つ上の長兄は海軍の整備士、2番目の兄は学徒動員で釜山にいっていて、母親と弟の家族3人でなんとか生きていかなければならなかったのです。

時は、戦中です。父親が大阪から貰ってきたオランダカイウや特産のハナショウブもコメの増産のために育てることを禁止されつつありました。花を育てるくらいなら、供出のコメを育てるべきだという国の施策でした。

それでも、そのコメはほとんど全部が供出に取られてしまうので食べるものが本当になかったのです。なんとか、ハナショウブを隠れて栽培し、お金に換えていかなければならないということで、官憲の目が光る中、母親は、ハナショウブの栽培を続け、父親のもってきたオランダカイウを大事にいつかのためにとっておいたのです。

母親がそんな折、逮捕されることがありました。すぐに釈放されたものの、いよいよもともとあったハナショウブの田んぼもコメに転換しなくてはならなかったので、全てを株起こしして稲を植えました。

それはそれはとても大変な作業で、かつ悲しい作業で、近所の方に手伝ってもらいながらなんとか体裁を整えることが出来たのでした。

良三少年農作業をする

ハナショウブ以外の食糧の栽培もおこなう必要があり、農作業はより苛烈さを増しました。

その当時は、肥料は手に入りにくく人糞を使用していました。もちろん農薬なんてものは使ったこともなく、だからたくさんウンカが湧いたり、コメが秋落ちしたりと収量がままならないことも多くあったそうです。

人糞は長池の家から約12,3kmほど北にある竹田村に汲ませてくれる場所があります。リヤカーを引いて、3カ分の樽につめてもらいます。1カというのは、両端に樽が二つついていてそれで持ち上げることができるものです。従って、それを6つ分のせてリヤカーを引いておおよそ3,4時間ほど歩かねばならないのです。

朝早くに出発し、途中でおにぎりを食べます。良三少年はそのころは小学6年生です。農作業は大変だけれど、隣の席のやつは草履ではなく靴を履いて、この前なんて弁当に鮭が入っていたけれど、そんなことは、重い人糞を運んで食べるおにぎりのおいしさに比べたらなんてことないのです。

もちろん臭い。でも、不思議にそんなに気にならないのです。体を動かして、皆の為に働くことはとても有意義に感じていました。

人糞は共同で使用します。親戚や周りの農家の畑には「のつぼ」があってそこに、人糞を溜めて発酵させます。そうして発酵した人糞をひしゃくでまくのです。風の強い日には、逆風に吹かれ舞い戻ってきたりして大変です。それでも、まんべんなく撒かなければ、育ちが悪くるし、その分、苦労が増えるのです。

逆にちゃんと撒いて、施肥した土地では、ちゃんと作物は応えてくれるのです。

「人さまの役にたつような人にならなあかんよ、ってかあちゃんいうけど、それはそうなんやけど、別に人にみてもらわんくても、ええわ。ちゃんとお天道様がみてくれてるわ。やった分、育ってくれるもんな。」

今まで、配達の手伝いはしていたけれど、実際の農作業を通して、植物の育て方、栽培の方法を肌で感じられるようになったそうです。

良三少年は、農作業をすることで、地域の人とのつながりも強く持てるようになり、そして、実際に腕っぷしも強くなっていきました。

ある時、小学校の授業のかわりに農作業をする時間がありました。踏板を使って土をならしていくのですが、同級生3人が下級生にその片付けをやらせているのを良三少年は発見します。

「そんなんあかんやろ、自分でやれ!」

良三少年はそう言いました。そのうちの一人が突っかかってきましたが、鼻っ柱にひと突き入れると鼻血が出て泣いて逃げていきました。

「なんやあいつ、自分でつかったもんくらい自分で片付けなあかんやろ。」

下級生と一緒に踏板を片付けたのでした。

次の日、3人がいつもの草履の姿ではなく、カッポカッポと下駄を履いてきて良三に向かって「決闘や!」と言ってきました。

「3人がかりで決闘とはよういえたもんやな、なんや下駄なんぞ用意しよって」と思いましたが、引けません。体育館の中で、周囲に人も集まり、いよいよ決闘が始まりました。

良三少年に向かって3人がよってたかって下駄でパコパコ殴りつけてきます。

でも、良三少年は農作業で鍛えた身、素早く下駄を躱すと鼻をめがけて一閃。3人を瞬く間に倒してしまいました。

周囲のギャラリーからは歓声があがります。当時の小学生にとっては喧嘩もひとつの娯楽の一つなのでした。

良三少年は、活発に育ちました。小学生を卒業したら兄たちと同じように兵隊になって家を出たいと思っていました。力も強いし、兵隊になれば、家族の助けにもなる、と思ったのです。

しかし、身体検査の2か月ほど前に胸を強く打つ怪我をしてしまってレントゲンに影が映り、試験におっこちてしまいました。

兵隊の試験に落ちて落ち込んでいた良三少年でしたが、人間万事塞翁が馬と思ってそこになにかきっと別の意味があるに違いないと、自身の活発さを活かそう、とそう思ったそうです。

良三青年の転機

良三少年が中学を卒業したとき、親戚の家のあととりが戦死し、男子がいなかったため、養子に出ることになりました。

母親とも話し合い、悩んだけれども、人さまの為になることをしなくてはならないと思い、人手少ない親戚の家を助けるためと思って了承しました。

そこも同じく農家で特産の寺田イモとコメを栽培していました。もともと菜種の栽培やイモ、コメなど、多種類の栽培を経験していた良三青年は手先も器用ですぐに作業になれました。

イモとコメを栽培する日々が続いたある日、良三青年、20歳の時のこと、お父さんが脳梗塞で倒れて亡くなってしまいました。臨終の際に「良三には苦労をかけた。あとはお前のすきにせい」と言ってくれたのを今でも忘れられないそうです。

良三青年は考えました。

「小さいころに親父をなくして、母親と弟の3人で暮らし、ひもじい思いもしてきた。農家は大変やけどお天道様や地域のみんなが助けてくれる。農業をもっと工夫して、みんながメザシを食べられるようにしたいな。」

工夫は日頃の工夫への意志からうまれるものなのでしょう。

良三青年は、よく手伝いに行っていた親戚の家でイチジクの栽培をしているのを見て、

「せや、この畝と畝の間には水気も豊富やし、枝が張って丁度陰が出来る。昔、おやじのもってきたオランダカイウ、ここで栽培できるんちゃうかな。」

と思いました。自分でもイチジクを栽培していたことから、オランダカイウの栽培を実際にはじめ、また、母親の守ってきたハナショウブやカキツバタを栽培し始めました。

当時、ビニールハウスはなく、自作で、油障子を貼り、骨組みは竹を切り、曲げアーチ状に加工して全て自家製のハウスを作成しました。自宅の窯からダクトを引き込み温風を中に流し、栽培の時期をずらすことにもチャレンジしました。

自作ビニールハウスで花を栽培

オランダカイウやハナショウブ、カキツバタが京都や大阪などの都市圏でとても人気があり、需要が高いことが分かると、地域の皆にも普及させてきました。豊富な水資源を有しているこの地の利点を活かし地域を盛り上げようと思ったからです。

コメの栽培にも尽力する必要がありました。多くの農家はコメを栽培し、それが家計の大きな収入だったからです。

何か新しいことを普及するにしても、主要な生業であるコメの収量は、安定的ではないのが問題でした。カワサキ農法という農法があることを知ると専門家を呼んで、コメの収量向上の為にセミナーを開きました。

そのように少年時代の活発さをそのままに精力的に駆け回っていると、花の市場の社長さんや生け花の流派の先生と話す機会も多くなりました。

生け花では、カキツバタやハナショウブのどんな葉がどのように利用されていて、どんな姿で納品されればうれしいのか、つぶさに聞きました。

たくさん研究を重ね、葉のたおやかさ、色味、切り前、とにかく品質の向上には貪欲にチャレンジしたそうです。

中でも、カキツバタの需要期に花がなくこまっていることを知ると、電照栽培にも挑戦し、成功させることが出来ました。

青年時代の岩見良三

祖父の良三は、その後、カキツバタを中心に水物花材を専門に扱っていくわけですが、杜若園芸の名前の由来となるカキツバタの栽培、そして今現在、水生植物を多く栽培する「生業」は、城陽の豊富な水と太陽、そして、交通の中継地であり、換金作物栽培への素養のある土地柄であること、なによりも、母親の教えと地域の方との連携なくしてはあり得なかったものだと思います。

私自身はまだまだ、未熟ですが、これからも土地を思い、自然に感謝し、ここに根差すものとして責任を全うするべく祖父や父からも教えられている、「人の役に立つものになること、そうで在ること」を目標に頑張っていきたいと思います。

良三の物語はまだまだ、続きはあります。杜若園芸の歴史の最初の部分ですが、また、機会があれば、書いていきます。

最後になりましたが、ここまで長文ご覧いただきありがとうございました。

(筆者)岩見俊孝